スーザン様
こちらの文章を拝見し、「瞑想」や「祈り」は丹田を作成するために有効な方法であると考えましたが、このような理解でよろしかったでしょうか?
あるいは、上記のご回答は「この方が丹田を作るにはどうしたらよいでしょうか」というご質問へのお言葉であることから、人によっては別の方法を模索する必要もあるということになるのでしょうか
●その通りで、人により(その方の段階により)丹田を作る方法は異なります
私(古川)の場合は瞑想のエネルギーは、ほぼ虚空蔵55が使い切っていましたので、他の手段を取らざるを得なかったのです
それはおそらく35部品に封印された「虚空蔵東京本」で解説されると思います
特定の部位ではないということは、(心臓や肺、胃などのように)完全に肉体と同一次元にあるのではなく、上位次元の体に対応していると考えてもよろしいのでしょうか
●(クンダリニーはチャクラではないという意味で)クンダリニーと似た関係性があるのですが、丹田は確かに上位次元に関わっていますが、肉体とその上位次元の身体、精神界のバランスを修正、強化します
ちょっとややこしいですが要するに
① 完全覚醒には健全な精神が必要とされる
② 健全な精神には健全な身体が求められる
③ これらの要求には段階がある
④ 故に完全覚醒といえど段階がある
こんな感じで、完全覚醒の段階を深めるためにも丹田の養成は必須になります
頂いたお言葉を私がそのまま解釈させて頂きますと、道元・栄西を含む禅の関係者は、完全覚醒をするほどまでには丹田が作られていなかったため、真我にまでたどり着くことが出来ていなかったという結論に至りましたが、このような理解でよろしかったでしょうか?
●丹田は出来ていたのですが、死ぬの生きるのという瀬戸際のやり取りがなかった・・・つまり「丹田が練れていなかった」ということです
あなたのおっしゃる「本当に丹田を作るにはいつ死んでも悔いが残らないという生き方が求めらるということになるのでしょうか」という事でしょうね
そして、(私から見ますと十分すぎるほどですが)道元や栄西は心底納得するほどまでにはいつ死んでも悔いが残らないという境地には達していなかったということなのでしょうか?
●そうではないのです・・・それも少しありますが・・・・う~ん、35部品で「宮本武蔵」の項が出て来ると思いますが、その時詳細が語られるかも知れません
(出て来るのが35部品の1巻か2巻か決まっていませんが)
この剣術修行者の方はその境涯について、後世に向けて何らかの痕跡(流派や書物など?)を残しておられたのでしょうか
●ここはかなり探求しましたが、その方の希望でまったく情報は受けられませんでした
おそらくそれほどの方ですので、何らかの痕跡は残っていると思われますが、私には知らされていません
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2022・6・1
アキラ様
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お待ちください。
SO&SO
うさまる様
SO&SOです。
「御祭舟1巻 特装版(限定950部)」二重注文について、ご連絡頂いた方のキャンセル手続きは完了しております。
ご安心ください。
よろしくお願いします。
目風様
みわ様
虚空蔵55様
いつもありがとうございます。
昨日(4月19日)は休みで、久しぶりに山に登りました。
歩きながら先日頂いたお言葉を自分の中で反芻させていました。
『自分を変えるのに「外の環境さえ変わればなんとかなる」という方法論』
というところをじっと見つめてみました。
いつも外に求める。怖いから周りに何とかしてもらいたい。
何とかなるようなものを手に入れたい。
そんな想いが潜んでいるのだなと感じます。
質疑応答2にもある、自分の傾向性も頭を過ぎりました。
質疑応答2の自分が頂いたご回答は今も折に触れて、繰り返し読んでいます。
中々深く得心することは叶いませんが、徐々に徐々に読み解きながらといった感じです。
山を歩きながら、どうやったらこの堂々巡りを越えていくことが出来るのか、どうやったら仕事の苦しみを越えて行けるのか、というところも思っていました。
思えば、介護の仕事を続けている中で、自分は常に我慢し焦り、恐怖し、いつになった介護に対する想いが楽になるのだろうと、来る日も来る日も自分を追い込んでいます。
仕事中は色んな想いが過ぎりますが、仕事は真面目に取り組んでいるのですが、仕事の後と朝起きた時の空虚な感じ、どこをつかんでいいか分からない無気力なやり場のない想いに、唯々疲労感を募らせていくだけでした。
段々とやり場のなさが、自分の想いを曇らせていき滓となり、怠惰・どうせ何をやっても何にもならないという想いが入り混じった、厭世的なあり方を混濁させていくようになりました。
仕事の中で怒りとなり、苛立ちとなって飛び出てくる感情、想いに段々疲弊してきていました。
怒りは仕事の中でのストレスもあるでしょうが、人生全般において溜めこんできたものからのものもあります。
もうこれ以上、介護やりたくないよ・・・。
そう思いながらこらえながら、でもやるしかないというサッパリとできないのが私の現状です。
今の私には、そこにはこれからどうしたいのか、という目標などはどうしても見えてきません。ぱっつりと暗黙の暗闇を見るようで心が開けません。
ここをどう乗り越えていくのか、どうしたらいいのかという葛藤の中です。
もう介護辞める。転職か・・・そんな時に苦しくて書いたのが前回の書き込みでした。
『御祭舟 少女精 第一部 あとがき』読んでから、「薹がたつ」という言葉が気になっていました。
いつまでも少年の心を自分の中に持つ、青春の心で生きる、という事を今まで聴いていたのですが、自分の中ではピンときませんでした。
でもそれは大事なことなのだと感じてはいました。
自分は少年の心に蓋をして生きてきていました。自分でも記憶にあるのが12才の頃。
幼少期の両親との関係、そこから内面の屈折を持ち、周りの想いに応えよう、いい子になろう、自分の幸せを諦めよう(自分は幸せになっちゃいけない!)といった想いになっていきました。
幼少・少年・青年期は、想いのやり場や表現の術がなくて、想いが鬱屈していたようで、羨望、盗癖となり、家族内での金銭や友人とのトラブルを生み出し、誰にも相談もできず、両親にも心を閉ざし、精神的に窒息してしまいました。
友達の金品を盗み、傷つけてしまい、そんなことをやった自分はもう喜んではいけない、幸せになってはいけないと思いました。
自分のやったことを隠し、感情を抑え、周りに受け入れられるように生きるということが、自分にとってのノーマルなんだ、それしかないんなんだ・・・そんなことを強く思ったのが12才頃だったと思います。
そこからは学校の先生の言う通り、親の気に入るようにし、それまで好きだったこと、楽しいと感じていたことを自分はそんなに楽しんではいけない、求めてはいけないと思い、そういうことを自分から排除していくようになっていきました。
好きだったこと、楽しいと感じていたことを通じて、それが嫉妬や羨望、盗癖の方に動き、
友人や周りとの断絶を生んでしまったからです。そこに触れるとトリガーが引かれます。
そこを見ると、自分の秘密がバレてしまう、怒られる、生きて行けないという大きな恐怖がありました。だから自分は幸せになってはいけない、楽しんでも行けない。
自分の気持ちをギュッと打ち殺してきました。
そこから生まれた精神的な窒息状態が20年、30年と続いていました。
子どもの頃はそうした状態でも生きて行けるくらいの想いでした。
ですが、十代を過ぎ、二十代を過ぎ、三十代を過ぎ・・・と時を経ていく中でそれはとても苦しいことなのだと身をもって体験してきました。
宇宙全史に出合い、回答を頂き、ことあるごとに回答を読み返す中で、つい最近までは自分が精神的に窒息状態だったのだと気づくこともできませんでした。
考え行動することすらままなりませんでした。
最近は、自分がエゴの形成ができなくなっていたのだということも、身をもって段々と知るようになってきました。
自分は生かされている、という本当に恵まれた環境の中にいる、ありがたい。それをちゃんと見なさいと教えていただいても、
ありがたいのだけれども、どこか人生が進まなくなっている、それが苦しいのに・・・。と
葛藤は消えませんでした。
その板挟みの中で宇宙全史のBBSに堂々巡りの書き込みを続け、祈りの会の先生にも泣き言をいっては、ご指導を頂き、身を立て直す、という繰り返しでした。
いつも外に求めて生きてきている自分。
何故か。
それは自分が「何をしたいのか?」「何が好きなのか?」「自分はどうしたいの?」
という事が考えられなくなっていたからだとも思います。
いくら自分に蓋をして生きてきていても、これが好きだ、これ楽しいというものはその時々でその芽を見せていたのですが、そうしたものを選ぶことを打ち消す心の動き、
少年期に感じた恐怖からくる情動記憶に舵を取らせてきました。
そしてその情動記憶を保持し、強化することをコツコツとやり続けていました。
「これが好きだな、懐かしいな、嬉しいな、やりたいな・・・」という想いが、
幼少期、少年期のトラウマを思い出させ、それがトリガーとなり自分の想いを否定する、拒んでしまう、恐怖の情動記憶が膨らんで、そこから進めなくしてしまう・・・。
自分の中を見ていられない。怖い。だから外に求めようとするのだろうか。外の世界に安心感を求めるのだろうか。
どうしても自分で処理できない情動記憶が引っかかり、棘として刺さり続けていて、これではもういけないと思いました。
昨年、小さい頃のそうした事件を、祈りの会の先生により細かく告白しました。
概ねこのようにご指導頂きました。
結論から言って、あなたが罪と思っているこうしたことは、
神さま、五井先生は完全に許して下さっています。
神さまが完全に許して下さっているんだから・・・。
それ以上入ってはいけません。
人間には入っていい領域と、それ以上入ってはいけない領域というものがあるんですよ・・・。
どうぞ、ご迷惑をおかけした方たちを守ってあげてください、その方たちの天命が全うされますように、とお祈りする。
それでもう十分です。それでもう、何の問題もない。
完全に許されているよ・・・。
小さい頃の物を盗っちゃうこととか、そうした屈折した思いからくることはちょこちょこあることで、
あなたの場合は、心の奥底に誰かの関心を得たいという思いがある。
周りに自分を認めてもらいたかった。周囲の人の関心を得たい。
それがあなたの場合、変な形の心の動きになってね、
その強烈な想いが、物を盗ったりという盗癖と出たり、色々と出た。
小さいころにそうした苦悩を経験したことによって、過去生からの業を浄めて頂いて、本当は良かったなぁ、というのが答えです。
そういう小さい頃に、こういう苦悩を抱えている側からすると、何で私だけこんな苦しまないといけないのかと考えてしまうはずやけど、小さい時分に今生で払わななければならない業を小さい形で浄め去っていただけた。
ああ、こうゆう形で業想念が消え去ってよかったな。
あぁ~、神様ありがとうございます。これでいいんです・・・。
それで充分です。何の問題もない
それにちゃんと守護霊守護神様、五井先生に感謝してお祈りもしているのだから。
何の問題もありません。
・・・真面目すぎるんだよね。私から言わすとね。ちょっと生真面目すぎる。
真面目というのは良いんだけれどもね。ちょっと生真面目すぎるね。
それと、小さい時分というのは、色んなことがあります。まあ、年齢が行ってからいろんな問題が出る人もいますしね。
こんなの、私(会の先生)から言わしたら、どうってことないです。
まあ、あなたには悪いけどね・・・。
五井先生に心の棘をとっていただき、お任せしている、もう五井先生が引き受けて下さった。
そうしたことをもっとしっかりと受け止めなければいけないなと改めて思い出しました・・・。
今こうして当時のことを振り返ると、まだまだ心の奥に染み込んでおらず、以前と同じような想いの傾向をつかんで悩んでしまうところがあります。
しかし、段々と染み込んできているとは思います。
これまで自分の好きなこと、やりたいと思ったことがよく自分で分からない(自らアクションしてこなかったから)。
それに自分の外に求めたがる傾向性もあって、心の向きが逆を向いているのだと思います。
何かを得ることによって、自分が満たされるというベクトル。
先日まんだらけのホームページにあった、新卒の方に向けたメッセージを見て、
そういうことなのかぁ~とちょっとベクトルの向きについて新たな認識を得たように思えました。
ちょっと抜粋させて頂きます。
以下まんだらけの採用ページからの抜粋です。
『 何をやりたいの?
学生時代、勉強が好きでないのなら勉強などしなくてもかまいません
問題は「やりたいこと」「好きなこと」「なりたいもの」があったかどうかです
学生時代でも将来でもいいのですが、その目標があれば、それに向かってそれなりの勉強はしたでしょうし、様々な努力もしたでしょう
それをやって来なかったのは、単になまぐさだったのか目標がなかったのかのどちらかです
本当にやりたいこと、好きなことがあればその人は目標に向かって努力するでしょうし、それを手に入れるための勉強もします
ここで着目すべきは、人生において大事なことは「勉強すること」でもなく、「仕事をすること」でもありません
大切なのは「あなたが何をやりたいのか」「何が好きなのか」というところです
それを基準にあなたの将来を決めて下さい
それがあなたにベストの選択をもたらすでしょう
「勉強」や「仕事」は、その後でいくらでもついて来ます。』
私にとってこの文章は衝撃的です。
(自分には目標がありませんでした。今もそうです。
小学校の勉強が全くダメでした。先生の言ったことができない・・・。
勉強さえがんばれば、それしかないんだと、子どもの頃は自分を殺し続けてきました。
みんなが勉強と言っているものは何なのか。まったく分かりませんでした。
中学に上がり、これ以上できないのはやばいらしい・・・でも勉強って何?
色々周りを見回してみると、どうやら暗記力が要となっているらしい・・・ということがつかめて、何とか出来るようにはなっていきましたが・・・。
そしてその呪縛から逃れられず、苦手な学校の勉強をやらねばならないという強迫観念を持ち続けています。)
自分のやってきたことは真逆ではないか!と何をやってきたんだと・・・。
大きくため息をつくような、徒労感を感じました。
今さら、これからどうするんだ・・・。
今まさにこんな感じです。
宇宙全史の中で、このような感じでは仕事についてのお話は読んだことがなかったですが、
「心ある道」というのはこういうことなんだと思いました。
今まで、心ある道ということがあまりピンと来ていませんでした。
これを読んで、自分はまったくの真逆の道を進んできていたのだと・・・。
勉強をがんばらなくっちゃ、仕事を探さなくては、とにかくやらなくては。
そこに目標や好きな物を考えることを拒み、排除してきました。
それも真面目に生真面目にやってきたのだなぁと。
「御祭舟 少女精 第一部 あとがき」の最後に、
生真面目について触れておられたので、
更に自分の中で、ちょっとやばいと感じました。
介護という仕事柄多くの先輩方のお世話に関わってきましたが、なんでこうも、こういう性格(頑固、頑な、偏屈、偏狭・・・などなど自分の中にももちろんありますが)になっていくのだろうか?
そうなって行くしかもうないのか?
それも皆さん固まって、それが自分よと主張され、他に合わせてとか受け入れてとかいうキャパがもう針の穴くらいになっている、そこをどうにかこうにかお世話していくというストレスが悶々と心の中でくすぶりつづけ、近年は腐り始めていました・・・。
まだ自分は動けますからそういっておられますが、年を取るとやはりそういう風に縮退して凝り固まっていってしまうのかというものも持っています。
幼少期からの自分を振り返ると、ことごとく好きな物、やりたかったことから、それらから敢えて離れていく、拒んでいく、周りの人との関係もちゃんと築いていけなくなって、そしてもう訳も分からず孤独感に陥り、他との交わりもなく精神が窒息状態となり、ウツになるという流れになっています。
大分偏屈になっているようです。
そこにちょっと風穴を開けて・・・という試みのようなことをしてきましたが、強烈にその風穴を塞ぐように心が動き、自己否定し帰ってエネルギーを消費して自己憐憫を増長させて自滅してきました。
そんな自分を隠そうとするし、そして周りの受けのいいように相変わらず自分の気持ちを出すこともなく、真面目、生真面目さを良しとして優先させて生きてきました。
人間関係はちぐはぐになりますし、本音をあまりにも内に隠し抑え、良い人として見られる傾向もあるのでそのあやふやな態度となり、痛い目も招いてしまいました。
そしてそんな自分に自己憐憫と責任転嫁とに耽ってきました。
(今現在、この文章を書き始めて数週間立ちますが、今日も山に行ってきました。
自転車の修理もかねて、久しぶりに自転車にも乗りました。)
ふと、思ったのが、「そうだ、自分はそもそも休めていない」ということでした。
ゆっくりしたい、休みたいと言いながら、頭はグルグルと回転しています。
気力の枯渇、というのは20歳頃から感じており、そこをどうしても解消できなくて、
何とかしよう、何とかしようともがき続けてきたように思います。
諦めや疲れをちゃんと受け止めることなく、不安に駆られいつも動揺してきていたと思います。安心できるものを外に外に探し、そして、何が何でも自分を変えようとしない頑なさを持ち、そこに自分を閉じ込め続けてきました。
今の自分がこうなのは、誰かのせい、社会のせい、親のせい、と怒り、
自分は金輪際悪くない。自分は被害者、だから誰かに助けてもらって当然。
そしてやはり、根底には、いつかきっと必ず良くなるから(そのままの頑固な生き方を続けていても・・・)という考え違いがありました。
生真面目にやっていれば、やり続けていれば、仕事も何とかなっていくと思っていました。
そういう考え方になるには、あまりにも幼少、青年期に疲れてしまったことと。
その幼い自分が頑張ったことが、もう全てであり、その頑張りが人生の全てであったという、強い思い込みがあったのだと思います。
心の視野の狭いまま、近視状態のまま、周りが見えなくなり(実際の肉体の眼も視力低下、飛蚊症の悪化などがあるのはその影響かもしれません)、
あれだけがんばった、あれだけ苦しんだ、これ以上どうすればよいのだという(恐怖感や自分は悪くないといった凝り固まった想いも相まって)、他の何物も見えなくなり、自己完結と絶望感から出られなくなっていました。
他(人、社会、知識など)を受け入れられない、ひどく矮小な自分に凝り固まった人間になっているようです。
自分の根底にもうこれ以上できない、したくない、誰か何とかしてよ・・・といった心にこびり付いた想いがあり、祈りから行動につなげることが出来ず、悶々と悩む、慎重すぎる、
幾重にも悩み続ける、そしていつしか行動を制限、行動できない、行動しないという自分の中のループが自分のコンフォートゾーンになっていました。
五井先生の祈りであっても、五井先生のみ教えすら、祈れば必ず良くなるという言葉を、
「何かしらの工夫努力すら否定し、拒絶し嘲り、どうせ無駄だ、いつもと同じだと改善策を自分なりに考えることなく、行動に移すことなく、今堪えていればその内良くなるんだという強固な想いだけが前面に強く出る」そんな自分の想いの傾向性から、歪んだ解釈で受け取ってしまい、
当たり前の努力すらできなくなっていきました。そも周りの人たちとの関係性が断裂していました。
その勘違い、間違ったすっ飛んだ短絡思考にすら、メスを入れることすらできませんでした。
内を見ず、外を一生懸命変えようともがき、あがき、せっかくためたお金を使い、幻想を相手に大刀を振るってきたのだと思います。
それに加えて、短気、結果を直ぐに求めるといった傾向性が
内を観ることが出来ず、外に、外に求める。誰かが何とかしてくれる、といった自分の傾向に拍車をかけ、泥沼化しどんどん停滞感を募らせていっていたのだと思います。
何を読んでも、学ぼうとしても自分に繋がらず、外に求める、外から足りないものを継ぎ足そうとする。
どうしてもそうなっていっています。
誰かが何とかしてくれる、自分では出来ない、こういった強烈な想いはどういったところからきているのか。
ここ最近、また繰り返し、質疑応答1に戻って順々に宇宙全史-質疑応答を学んでいます。
今まで読み取れなかった意味合いを汲み取れるようになりました。
それは自己憐憫という自分の傾向性を自分のこととして段々と読めるようになってきたということです。
今までとは感じ方の度合いが違い、今まで以上に腑に落ちるという感じでしょうか。
何事も人のせいにする=責任転嫁する。自分は金輪際、悪くないんだ。正しいことをやっている、という想い。他の人を人として見ることが出来ない。断絶感。
そして自己憐憫と責任転嫁の想いが、ちゃんと自分の中にあるということを受け入れることができませんでした。
親のせい、社会のせい、こういう境遇のせい・・・そんな自分なんだから仕様がないじゃないか、だから受け入れてよ、分かってくれてもいいじゃない、何でわかってくれないの、どうしようもない、だから何とかしてよ・・・。
周りに怒り、親に怒り、内に復讐心を抱いているのではないかと思われます。
こんな人生コースになってしまって、もうどうしようもない。こんな人生しか選べなかった、悔しい、なんでどうして・・・
今までの人生を悔やみ自己憐憫と責任転嫁の泥沼に陥り、やることなすこと内に求めず、
外から見て自分はどうか、何をやっていると得になるのか、持っていると安心してくるのか、
そういった考えになっていました。
幼少期からくる想いの傾向や恐れから、本当はどうしたいということを追求することでなく、
恐れ、不安、焦りから何かしらの資格を取ろうとしたり、進路を考えようとしたり、してきました。
恐れ、不安、焦りから周りの価値観に追従することを良しとしてきた、小さい頃の楽しく明るい気持ちを観ることは、自分の嫌な成長の記録を見ることにもなります。
幼少の頃の自分は、自分の闇を告白することで、親や周りに殺されてブチ殺されるくらいの恐怖を抱き、絶対にバラしたくないと心を閉じ、内に閉じこもって自分を守りたいという一心でした。卑怯な自分。隠し通す道を選んだ自分。
そうして一歩一歩と閉じた自分が形成、強化され「自分さえ良ければいい」というものに繋がり、その殻をさらにより強固にするとは・・・、
周りとつながれない、そういった自分が今日の私になることを、
当時の私は考えもしませんでした。
ここ数年は、精神的な窒息状態に陥った状態で、職場を変えたり、焦りから資格を取ろうとしたりと陰鬱状態となり、
以前、ある方の元で学んでいたときに聴いた「介護という仕事は、今後崩壊していくであろう仕事・・・雇われマインドから脱却しなくてはいけない」という言葉が、恐怖心と焦りで胸に引っかかていたこともあり、これは何とかしなくては、自分で仕事をしなくてはならないと、これからの自分に強烈に不安と恐怖心を抱いているのが現状です。
思えば幼少から自分はもうどうしようもないという想いが常に根底にあり、前回の投稿のような書き方になっていたと思います。もう人生の可能性なんてないんだと、もう疲れたし、何もやる気がしないと・
だからもう、じっとしていて、
祈り、祈り、もうそれしかなく、そして死んでいくしかない、この世にもう何の関心もなく、希望もなく、やりたいこともなく、好きなことがあったとしてもそれが何なのか・・・という諦めの強い想い、自己憐憫と、責任転嫁、そしてそこに執着し続ける状態の自分。
でもそうじゃない。
目風様のお返事を頂き、よく考えることをしてみようと思いました。
質疑応答1を読んでいて、今回読み直して、なるほどと思えるところが増えていました。
親子の問題、どんな育て方をされたとしても、そうして苦悩を抱えた人生を抱えて今に至ったとしても、「親は親としての問題、自分は自分としての問題」と考えることで、親のせいにしたり、生まれた境遇のせいにしていつまでもいつまでもグルグル回るのではなく、だから自分はどうするのかというところに、そうだよな、自分は自己憐憫と責任転嫁に燃えているよな・・・と思えました。
今のところはまだ、その取っ掛かりの時点であります。
まんだらけで働きたいという想いをよくよく見ると、
そこにはもう介護は続けたくない。今の自分ではこれ以上はちょっと・・・もう疲れた。
というものがあります。
そして、目風様の仰るように、外に求め、外を変えることにしか方向性を見いだせないというところがあります。
決して、内面を変えたくない、そんなことしたくないと本当は思っているんだな・・・。
「仕事の中で感じていた抵抗感、辛さもあったけど、そういうのではなくて・・・、何かもう、ただ耐えるだけになっている。」
そして「介護という仕事はもうなくなるのだから」とも思っている、自分は何かをすることが出来ないと諦める節があります。
「散々、こらえてやってきた。嫌だ嫌だと言いながらも、
それは自分が未熟だからだ、何とかがんばらなくっちゃ、介護でも
何とかなるとやってきた(自分の殻の中での、何とかしなくちゃだったと思います。)」
「でもどうにもならなかった、やってもやっても、何か心が晴れるものがなかった・・・想いを広げて行けなかった。」
自分が進路を考える上で、「教育」というものが想いの中にありました。
でも自分に正直に考えると、教育や介護(人のお世話)に本当に興味があるわけではなく、自分が苦しんできたから、自分が本当は親や周りにやって欲しかったことを、外に求めようとしたから、頭の中では仕事として得られなかったものを得られると思った・・・ということがあるのではないかと思います。
質疑応答1(P.28のご回答)の中にもありましたが、
『「本当はやりたくはないけど、相手を想うというエゴ」でやってしまっている。』
というところに感じ入るところがあります。
社会性、見た目、周り言う事を聴く、いい子だねと認めてもらいたい、世の中の人のため、常識的に考えると・・・そういった思惑みたいなものに沿って、自分の内面の蓋を開けずに、想いを見つめることなく決めてきた道。
これまで、「好きなこと」「やりたいこと」を満足に素直に考えられませんでした。
それを拒否、拒絶、否定する習慣がありました。
目の前に気になるものあっても、それが好きなの、面白いの、という事が、雑音が入って、ちゃんと感じられませんでした。
具体的には、それがアニメ、漫画、ゲーム、おもちゃであるのですが、子どもの頃の親の価値観や親のそれらに対する見方を自分の見方にしてきた、幼少のトラウマがある、ということもあり、
それじゃないんだ、目の前のそれではなくて、もっと特別なものなの・・・という捉え方をしてきました。目の前のものを受け取れず、目線を他に他にと向け探そうとしてきました。
いつしかアニメやおもちゃ、それに限らず目の前の事柄全てには「そんなものなんだ、ふん。」という表面的な想いがかぶさっています。
「ふん、どうせ、何やっても、何にもならない・・・」段々世の中の見方が一方通行的になって、融通の利かない、唯々、人から見て良い人、落ち着いた人、そして生真面目性格が自分になっていっていました。
たまに漫画やアニメを観るけれども、長くは触れていられない、すぐに排除対象になってしまい、楽しむことが出来なくなっていました。
子どもの頃、9歳くらいまでは絵を描くのが好きでした。
漫画のようなものも描いていていました。
アニメや特撮ヒーローものも好きでした。
おもちゃ屋さんの前にじっと突っ立って、おもちゃをねだっていたこともありまし。
買ってほしいおもちゃを前に、おもちゃ屋さんってうらやましいなぁ。大きくなったらおもちゃ屋さんになる。そう思っていたことを覚えています。
段々そういった、自分にとって楽しい想いが段々見えてこなくなりましたが、最近は少しずつ認めて行けるようになってきたような気がしています。
好きなことを仕事に・・・というシンプルな想いであるならば、それが許されるのならば、
介護よりもまんだらけでもう一度チャレンジしたい。
もちろん、そこに宇宙全史があるから、宇宙全史と出会ったから、まんだらけを知ることが出来たという経緯があります。だからこそ、自分がまんだらけに感じる魅力も増している
というもの事実です。
仕事、どうしようか
ああじゃないか、こうじゃないか・・・。そうやってエネルギーを無駄に使っているんだなと思います。
祈りを欠かさず、今の仕事に感謝し、ちゃんとやりながらも、
転職の可能性も考えつつ、できることを、準備できることがあれば、淡々とやって行く、
その中でも、落ち着いて、自分の中を見つめていく、そんな強さがそなわりますように。
またその中で、自分の好きなことに時間を使ってみる。アニメを観る、ゲームをしてみる(最近そうすることを自分に許せるようになってきているようです。でもどこかで全否定に陥るかもしれないという想いもあります・・・)。
想いが乱れて、怒りに塗れて、退廃的になっていても、祈りに戻り、山に登り、浄化していただき、出来る限り誠実に仕事をする。そんな中で沢山助けて頂きながら今回文章を書きました。やはり、自分の中に、前進したい。人生をやり直したい、立て直したいという想いがあることに気づきます。そのエネルギーを自分の中に感じたい、現したいと思っています。
書いていて、自分の心の狭さを感じます。
祈り、自然の中を歩き、気力を頂き、書かせて頂いたと思います。
宇宙全史 質疑応答を読んでいて、皆さんのご質問、虚空蔵55様のご回答から、
今とても刺激を受けています。
シャギーさんやスーザンさんの書き込みを初め皆さんの書き込みを読んで、
どこか自分はお高くとまって、高みの見物をしていたのだと感じました。
皆さん、今あるその身、その心でで、体当たりで書き込まれていたのだと感じました。
最近は、肉体面ではコアチューニングメソッドを毎日の習慣に取り込んで実践しています。
肥田春充先生の教えを元に、須田達史先生が生み出されたものです。
資格も取らせて頂いたのですが、色んな想いや葛藤が前面に出てきて、
今はどうも動けません。
祈り、歩き、一冊また一冊と繰り返しまた読んでいきます。
御祭舟を読ませて頂きまして、ありがとうございます。
学ばせて頂きます。何卒、ご指導よろしくお願いします。
古川会長、みわ様の命数のことが時々触れられますが、前回の虚空蔵55様の時のように
ちょっと心配な気持ちが頭をもたげますが・・・
五井先生をお呼びし、お祈りしてまいります。
長々と書いてしまい申し訳ありません。
5月10日 satsuki
世界人類が平和でありますように
守護霊様 守護神様
虚空蔵55様 みわ様
目風様 古川会長
遊撃手様
アンドロメダの皆さま
EO様
月読之大神様
植芝先生
五井先生
ありがとうございます。
satsuki様
スミマセン
色々手違いで完全文を掲載出来ていませんでした
再掲載します
●また回答も再掲載です
satsuki様
あなたのこの長文だけでは心許なかったので、上の方に確認しました
まだまだ道半ばの迷いにある人だけれども、もう一度やらせてみて
というのが降りてきました
そんなん訳で正式に応募して下さい
選考は普通にやらせて頂きますので、そこで落ちないようにがんばって下さい
(ただまんだらけは、みなさん扱うアイテムが好きな方が楽しく働いているところです。宇宙全史はここではアウェイですので、そのおつもりでお願いします)
目風
目風様、みわ様
この度もID : 1381079557にて、私の拙い質問にご回答頂き誠にありがとうございました。
今回頂きましたご回答では、主に以下の2点に気づかせて頂きました;
1. 丹田を作成することの重要性
2. 私が大分ロジカルな(分析的な)思考に偏ってしまっていること
丹田の重要性に関しましては、もちろん認識はしておりましたが、全くもって自分の課題として意識はされておりませんでした。
また、私の思考が大分ロジカルな方向に偏っているということも薄々は分かっておりましたが、作品を鑑賞する際に弊害が出るほどまでとは、想像以上でございました。
どちらもご指摘頂かなければ、気づけなかったことの恐ろしさを考えますと、この度お言葉を頂けましたことは大変有難いことであったと思われます。
限られているお時間を割いて頂き、誠にありがとうございました。
今後は丹田の作成に取り組むこと、そして、作品を鑑賞する際には、分析するのではなく、トータルで味わうということをお祈りと共に意識させて頂きたいと思います。
私のことですから、同じような過ちを度々繰り返すことが予想されますが、今後ともご指導頂けますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
早速ではありますが、本日も何点かお伺いしたいことがございます。
どうぞよろしくお願い致します。
1. 丹田を作成する方法について
まず、この度頂いたご回答から、丹田を作成することの重要性をはっきりと認識させて頂きました。しかしながら、(そこまではよかったのですが)それではどのように丹田を作るのかということろで、完全に迷子になってしまいました。頂いたご回答には、
● 昔からいいますように一言で表現しますと 「腹をつくる」 ということです
● 丹田は肉体の腹(太陽神経叢辺り)と導通しています
● でも肉体の部位ではなく、全身にも深く関わっていますので、チャクラともちょっと違うのです(これも関わっていますが)
とありましたので、「丹田」「腹」というお言葉がキーになると考え、宇宙全史の質疑応答などを参照させて頂きましたところ、以下のような文章が目に留まりました;
● この方が丹田を作るにはどうしたらよいでしょうか。
● 「本当は瞑想がいいのだが、この方が瞑想に入っていくのは難しい」
● 「祈りもあるのだが、こちらはもっと難しいだろう」
(宇宙全史BBS右側 2009/3/20 No.641)
こちらの文章を拝見し、「瞑想」や「祈り」は丹田を作成するために有効な方法であると考えましたが、このような理解でよろしかったでしょうか?
あるいは、上記のご回答は「この方が丹田を作るにはどうしたらよいでしょうか」というご質問へのお言葉であることから、人によっては別の方法を模索する必要もあるということになるのでしょうか?
丹田と伺いますと、下腹部にあるとされる下丹田を思い浮かべてしまいますが、実際は、太陽神経叢辺りとも導通している一方で、特定の部位ではないため、スワディシュターナ・チャクラやマニプーラ・チャクラ等とは(無関係ではないが)異なり全身にも深く関わっているとのこと。
特定の部位ではないということは、(心臓や肺、胃などのように)完全に肉体と同一次元にあるのではなく、上位次元の体に対応していると考えてもよろしいのでしょうか?
以上のように考えておりますと、きちんと丹田を作って上で、しかも丹田の構造について詳細な理解がある方に伺わない限り、実際に丹田を作ることは困難を極めるような気が致しました。
幸いなことに、私は目風様のお言葉をお伺いすることが出来ますので、今は目風様のお言葉を理解できる私であるよう努力しつつ、詳細についてお伺い出来る日を待ちたいと思います。
その際はどうぞよろしくお願い致します。
2. 完全覚醒者は禅の関係者ではなく、剣術修行者ということについて
この度のご回答にて、
● しかし正確には「禅は学んでいましたが」実際は武士だったので
● 武士というか・・・剣術修行者といいますか・・・そういう方です
● 禅の関係者で完全覚醒は果たしておられませんでした(道元も栄西もですね)
● それは「丹田が出来ているかどうか」「どこまでの丹田が出来ているかどうか」が、完全覚醒の過酷な道程に耐えられるかどうかの一つの指標にもなっていたからです
● 日常坐臥、365日、死と対峙していた剣の修行者の凄まじさが伝わってきますね
とのご回答を頂き、誠にありがとうございました。目風様からお伺い出来なければ、一生分からない事実であったろうと思われます。
思いがけない僥倖を頂けましたことに、ただただ感謝致します。
頂いたお言葉を私がそのまま解釈させて頂きますと、道元・栄西を含む禅の関係者は、完全覚醒をするほどまでには丹田が作られていなかったため、真我にまでたどり着くことが出来ていなかったという結論に至りましたが、このような理解でよろしかったでしょうか?
また、1. にて丹田を作るには「瞑想」が有効であるとのお言葉を引用させて頂きましたが、道元や栄西という瞑想のプロのような方々ですら、完全覚醒に到達するまでの丹田を作ることが出来なかった一方で、日常坐臥、365日、死と対峙していた剣の修行者が、完全覚醒の過酷な道程に耐えられるまでの丹田を作成してしまったという事実を鑑みますに、(禅を学んでいたということも大きな要因であったと思いますが)本当に丹田を作るにはいつ死んでも悔いが残らないという生き方が求めらるということになるのでしょうか?
そして、(私から見ますと十分すぎるほどですが)道元や栄西は心底納得するほどまでにはいつ死んでも悔いが残らないという境地には達していなかったということなのでしょうか?
(まだやるべきこと、求めるところがあったということなのでしょうか?)
少し真面目に考えてみますに、私は死というものを本当には知らないと思いますし、例えば今末期がんの告知をされたらどれほど動揺するものか、どれほど落ち込むものか、想像すらできませんでした。
まして、死に際して、その痛み・苦しみにどれほどのパニックになるか、予想も出来ないものがありました。
(私には想像も出来ませんが、常に死を意識しつつ、地上の縛りからの離脱に向けて準備を重ねてきた修行者にとっては、「よし、ついにその時が来た。如何にして死んでいくか」というような感覚になるのでしょうか?)
この度のご回答を頂き、足りない頭を振り絞って、想像力を最大限に働かせてみましたが、自分の死に際では、大体が苦しみ、そしてその苦しみから派生する後悔などにより、相当の恐怖に煽られるような気が致しました。また、諸々がうまくかみ合って本当に良く生きられたとしても、安らかに眠るように死ぬというのが、現状の私が想像しうる最も良い最期のような気が致しました。
このような境涯の者には、死に際しても十分なエネルギーを残し、(少女精・第二部のフローリアがしようとしたように)覚悟を決め、想いを断ち切るために踊る女戦士や、宇宙からの離脱を可能とする完全覚醒者がおられたというのは、驚愕の事実でございます。
(死ぬときは安らかに逝けるといいな、というのが、私の淡い(甘い)願望ですが、その一方で、死に際して宇宙からの離脱を意図するほどのエネルギーを残している方がおられたというのは、本当に信じがたいことだと思いました)
そのような境涯に少しでも近づけるよう、悔いを残さず生き切りたいと願うばかりです。
今後ともご指導頂けますよう、何卒よろしくお願い致します。
3. 完全覚醒を果たした剣術修行者の方について
禅を学んでいた剣術修行者の方が完全覚醒をしていたとのご回答を拝読させて頂き、「誰が地球に残るのか」の宮本武蔵の章にて、沢庵和尚がほぼ究極の覚醒を得ており、武蔵生存時には沢庵和尚と多少の縁があったとのお言葉が思い出されました。
宮本武蔵の章を読ませて頂く限り、武蔵はまだ覚醒はしていなかったと思いますので、完全覚醒を果たされた剣術修行者の方というのは武蔵のことではないと考えておりますが、この剣術修行者の方は、時代的にはどの辺りの方になりますでしょうか?
また、この剣術修行者の方はその境涯について、後世に向けて何らかの痕跡(流派や書物など?)を残しておられたのでしょうか?
私はこれまで完全覚醒者に対しては、ドンファンや二サルガダッタ、EO氏のような探求者という印象が強かったのですが、剣術修行者という形で完全覚醒まで至ったということが大変興味深く感じられました(もちろん、剣の道の探求者であられたとは思いますが)。
また、この度のご回答を頂くまでは、二サルガダッタのようなインドのマスターの覚醒方法と、禅のマスターの覚醒方法は(どちらも瞑想や座禅により、自己の本体を求めるという点で)似ているところがあると感じていたため、禅関係者で完全覚醒者が出ておられないというのが意外なところでありました。
これは、特に日本などでは禅の高僧たちは為政者たちから手厚く保護されていたため、常に死を意識するという点でやや実践に欠けるところがあったということなのでしょうか?
あまり本質的ではない質問も多々あると思われますが、何かお言葉を賜りたく思い質問をさせて頂きました。
また、丹田と精神との関りにつきましてもいつかお伺い出来ることを楽しみにしております。
何卒よろしくお願い致します。
4. 宇宙全史第二巻について
御祭舟外伝第二部で「あなたが私を抱かないのと同じ理由かも」と語ったときのフローリアの心情に関しまして、
● 確かにここは難しいところで、本来は「宇宙全史」第二巻で語られる内容でした
● しかし二巻は非常に難解で、発行が躊躇されていましたので、このマンガになったわけです
● 一巻も難解みたいですが(虚空蔵55はそうは思っていなかったのですが)二巻はおそらく誰も理解できなかったかも知れません
とのお言葉を頂きました。第二巻ではマレーネデートリッヒや、武蔵対小次郎の試合のことなどを掲載して頂ける予定であったと記憶しておりますが、一見すると何の関係もないように見えるこれらの内容から、どのようなことを伝えて下さろうとしていたのか、全く想像も出来ておりません。
私が第二巻の内容を汲み取ることが出来ないであろうことは想像に難くありませんが、仮に私が第二巻の内容を読んだ場合、その内容が今の私の認識とはあまりにも乖離が激しすぎて、何が分からないのかも分からないという感じになってしまうのでしょうか?
多分、フローリアの件と同様、そもそもその内容を受容するための感覚がないというところから始まり、それゆえ自らの知識や体験の中でカテゴリー分けして(分類・ファイル分けして)認識することが出来ないということになるのだと思われますが...
自らの認識の限界を大いに感じる日々でございます。
第二巻の代わりに御祭舟をご執筆頂いているとのことでありますし、第一巻すらもまともに読みこなせていない者に、第二巻で掲載して頂く予定だった内容が分からないのは当たり前かもしれませんが、今後御祭舟を読ませて頂くに際し、何らかのヒントになればと思い質問をさせて頂きました。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
また、マグダラのマリアとテレシコワやマレーネデートリッヒとの共通項に関しましても、今はあれこれ想像するだけであり、何ら確信的なことは分かっておりませんので、こちらも詳細をお伺い出来る時に向けて祈りを深めていけるよう、精進しつつ待ちたいと思っております。
今回もあまり内容の伴わない質問ばかりとなってしまいましたが、目風様のお智慧を賜りたく、長文を投稿させて頂きました。
どうぞよろしくお願い致します。
また、今後ともご指導を賜れますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
本日も誠にありがとうございました。
p.s.
宇宙全史第一巻は、私にとりましては、大変難解であると同時に大変興味深い・不思議な本でありました(もちろん、現在進行形でそうです)。
通常の本であれば、発行して頂いてから15年近く読み続ければ、徐々に面白さが減少していくと思うのですが、宇宙全史第一巻は逆で、徐々に面白さが解放されていくような気がしております。
それは、宇宙全史第一巻が本当にリアルな情報を伝えて下さっていたのだということが、ほんの少しだけ実感出来てきたからなのではないかと(前向きに)考えておりますが、もしそうだとすれば、(全ての内容をリアルに実感できる時まで面白さが継続するのであれば)本当に一生モノの本になってしまうのかもしれないと危惧(?)しております。
あるいは一生かけてその全容が理解できれば安いものなのかもしれませんが、今後さらに理解できる部分が飛躍的に増えていくことを願うばかりです。
今後も宇宙全史・御祭舟を継続して読み続けていきたいと思います。
2022・5・29