行 様
SO&SOです。
行様のお話しについてですが、宇宙全史の動画Vol.210~215にて回答させていただきます。
よろしくお願いします。
YouTubeご担当者様
YouTubeの動画について一点希望がございます。
もしよろしければ、アカウント「mandaray mandarake」の再生リスト「宇宙全史」の順序をナンバリング通りに整理していただけませんでしょうか?
個人で再生リストを作成すればそれで解決はするのですが、やはり公式の再生リストで整理していただけるとアクセスした人にとっては利便がよいかと思われます。
ご検討のほど宜しくお願い致します。
いくと 様
SO&SOです
「mandaray mandarake」
こちらの再生リストの整理完了いたしました。
https://www.youtube.com/@MandarakeCH/playlists
また先日、毎日更新行っている宇宙全史のYou Tubeチャンネルが変更となり
現在はこちらのYou Tubeチャンネルで宇宙全史毎日更新中になります
https://www.youtube.com/channel/UChXnaRtOyLW6h6nXVNrbgyw
よろしくお願いいたします
SO&SO
来月8月18日の夜12時更新予定の宇宙全史vol.200より
動画の更新時間が午前5時からとなります
朝日を浴びる宇宙全史!
古川様 目風様 まんだらけ宇宙全史スタッフの皆様
餅巾着(もちぎんちゃく)と申します。動画では、私の拙い質問にご回答いただき誠にありがとうございました。また、お礼のご連絡が遅れ申し訳ありませんでした。
宇宙全史の読み方や、取り組み方が間違っていなかったことがわかり、質問にご回答いただいたことで、宇宙全史に真剣に取り組むためのエネルギーを分けてもらった気がします。
現在まで、欠かさず動画は全て見ておりまして、毎日動画が楽しみになっております。
動画は、今しか聞けない重要なものだと思っております。
いままでの動画を見た中で、私がすべきことは、やはりお祈りをしながら「エゴ」を洗練して薄くし、学びを深める、これ以外に優先事項はないと考えるに至りました。
たくさんの質問にご対応いただく中、大変お手数かと存じますが、エゴについての質問にご回答いただきますと幸いです。
(①)自らの良心に従うこと、天命を全うすること、中庸で生きることの違い
宇宙全史には、自らの良心に従って生きるという概念と、天命という概念があり、世界平和の祈りの中にも組み込まれております(中庸という概念もありました。)
私の理解では、エゴが洗練され、エゴが薄くなってくると実存からのエネルギーが流れてきやすくなり、一つ一つの事情に対して自分の良心に従いやすくなり、ひいては人生を通じて天命に沿った生き方ができるようになる=そのためエゴを薄くして洗練する必要があると理解しております。言葉や概念の整理としてご質問させていただきましたが、この理解であっておりますでしょうか。
(②)エゴは身体という理解
動画内で、エゴは身体であり、内臓にもエゴがある。と御解説頂いたことがありました。また、食べたい眠たい女の子と遊びたいその他いろいろな肉体からくる反応もエゴであると考えております。
これは、物質や化学反応そのものがエゴという意味なのでしょうか。それとも、物質(肉体)などから感じられる感覚がエゴなのでしょうか?もし、物質そのものがエゴだとすると、例えば振り子が揺れることはエゴゆえに揺れるということになります。それとも、それを感じているものがエゴなのでしょうか。ご教授いただけると幸いです。
(③)世界平和の祈りを祈れない について
世界平和の祈りについてです。真風様は、良く「世界平和の祈りを祈れない」という言葉を仰るときがあります。この「祈れない」について、口に出したり考えたりすることはできるが、お祈りになっていないという意味でしょうか。それとも、口に出したり考えたりすること自体を身体が拒否するということでしょうか。
私も、嫌なことが続くと「死にたい」「消えてしまえ」という気持ちになり、すぐさま柔らかいお祈りと世界平和の祈りをとりあえず形だけでも行って心を落ち着けます。しかし、嫌な気持ちが身体を強く支配しているときは、世界平和の祈りが身体を素通りしてしまう感覚があり、染みていかないような感じがします。これが「祈れない」ということでしょうか。
(④)宇宙全史の読み方と、お祈りを声に出すということ について
宇宙全史の読み方について、前回の動画では、自分のエゴを感じながら読むという質問をさせていただきました。宇宙全史はとても分厚いため、私は、目次を読んで気になったところや、面白そうなところ、自分が探している答えが載っていそうなところをまずは読む方法をとっていました。
その中で、ミイラの原型となったエホバの話や、恐竜人間の話、人種差別の話など、ショッキングな部分に気を引かれることが多いです。一方、恐竜の歴史などのくだりはあまり興味を引かれません。重要情報である最大の蛇恐竜についても、現時点では興味がそそられないのです。
これは、私の中のエゴが情報を選別しているのでしょうか?宇宙全史の書籍が雑学的な要素が多くあるのは、多くの読み手を想定してそれぞれのエゴを刺激することを狙っている気がしてなりません。
また、知識や情報・刺激を外部から入れることによってエゴを変化(洗練・薄く)させることはできるのでしょうか。
例えば、漫画の御祭舟で、絵や物語で刺激を受けることでもエゴに変化はあるのでしょうか?また、世界平和の祈りを声に出すことによって、エゴに作用する刺激は心の中で思った場合と変わるのでしょうか。よろしくお願いいたします。
(⑤)エゴを洗練する・洗練されたエゴについて
動画の中で、洗練されたエゴの例として、電車の席をだまって立つという例を出していただきました。実は私は今までずっとこの方法でご年配の方や妊婦の方に席を譲っていました(スマホを弄りながら次の駅で降りる風にして他の車両に行くともっと格好良いです)。
どうすれば、譲ってもらった人も、周りの人も、私自身も、余計な心の変化なく、皆に良い結果だけ残せるのか、という風に考えて行ったものです。相手に対する、譲ってやったぞ、というエゴ、譲らなかった周りの人より優れているというエゴが出てこないようにしたものです。譲られた人も、周りの人も、何も罪悪感が発生しません。
ここで質問なのですが、このように、「頭で考えて」「エゴを洗練させよう」「良い結果を残そうと思って行う行動」はエゴを洗練させる効果はあるのでしょうか?それとも、エゴが洗練された結果、このような行動をとるようになるのでしょうか。
もし、行動を変えることにエゴが洗練されていく効果があるのであれば、明日からどんどん同じようなことを考えてひとつずつの行為を洗練されたものにしていきたいです。
(⑥)オシャレ・ルッキズムと洗練されたエゴについて
アニメやオタク、一部の邦楽のオシャレ落感の無さは、エゴが洗練されていないことによるものだと御解説いただきました。一方で、整形を繰り返す女性や、ブランド品まみれの人間はいくら見た目が綺麗でも、気持ち悪くみえますが、イチローはヘンテコなTシャツで球場入りしてもカッコよく見えます。
そこで、自分なりに洗練されたエゴが見た目の格好良さに与える関係性を考えてみました。エゴというのは、自分と世界との関係性を調整する力と宇宙全史にはあります。この自分と世界との関係性の調整というのは、食欲・睡眠欲・肉欲などを当然の前提として、上手くそれらの欲求と外界との調和を目指すことなのかなと思いました。
例えば、アニメオタクは、エゴ自体は薄くとも、作品やキャラクターに対する執着や性欲が隠しきれておらず、女性に不快感を与えることもあります。一方、美意識が洗練された男性は、下心たっぷりであるにも関わらず、上手く自分の執着や性欲を隠して女性に不快感を与えません。また、ブランド品まみれの人は、自分の欲望を振り撒きすぎており、周りに不快感を与え、調和がとれておりません。こういったことが、「見た目」や「立ち振る舞い」においてのエゴの考え方なのではと思いました。
(⑦)許すということと、エゴの関係性
私の中で、柔らかいお祈りと世界平和の祈りを続けていく中で、変化した部分があります。それは、元交際した相手に対する執着です。私の元カノは私に内緒で風俗嬢をしておりました。私は絶望と怒りを覚えたのですが、最近、心の中で元カノを許すことができました。「俺は彼女より優れている」「別に良い女はたくさんいる」というふっきれ方でなく、「多くの男性と交わって、お金を得て生きていくという彼女の生き方」を一つの人生として肯定して認め、それに対して怒ったり恨んだりすることをやめたのです。
今まで自分の中にあった「性欲にだらしない女は酷い女」「自分への裏切りに対しての怒り」が必ずしも正しい感情ではないと認めようとしたとき、ビルの上から飛び降りるような、自殺するような、そんな感覚になりました。私の中の歪んだエゴは、このとき自殺したんだと思います。許す、ということはエゴにとって死ぬに等しい一番難しいことだと感じました。
また、先日、この暑い夏の中、私がこぼした汁物の跡が拭きとりきれておらず、コバエが何匹か集まっていました。以前の私なら、このコバエを一匹残らず殺していたと思います。しかし、コバエはコバエの法則・生き方に従って生きているだけに過ぎないのです。
コバエが集まったのは、私が汁を完全にふき取りきれなかったからであり、コバエは殺されるほど悪いことはしていないのです。私は、気持ちが悪かったのですが、コバエを許しました。普段、世界平和と生きとし生けるものの幸せを祈りながら、自分の不注意で集まってきた生き物を殺すことはできませんでした。
生き物は生き物のエゴに従っているだけ、ただ仕組みに従って生きているだけなのだと思いました。
どこまで、自分の心を洗練し、エゴを薄くできるかはわかりません。エゴを薄くしていくと、世界の全てを肯定できるのでしょうか。例えば、恐竜人間に子供を目の前で食べられた母親のエゴは、恐竜人間を許すことができるのでしょうか。また、許すことが正しいのでしょうか。
(⑧)まんだらけの株式について
現在、まんだらけの株式を購入のため、証券会社の口座を開設してます。
「縁を持つ」ことそれ自体が、重要なのだということがわかりました。
(⑨)生贄の印とワクチンについて
私は、ワクチンを接種した愚か者です。選別は確かに受けた感覚があります。しかしながら、選別は選別に過ぎない、とも考えております。今回の選別は、例えるなら、黒いボールと白いボールを別の箱にわけるためにワクチンという手段を取ったのだ、と思いました。ワクチンを打たれた人がそのまま滅亡していく、ということではなく、現時点で滅亡する可能性がある人、滅亡するような考え方をもった人がワクチンを打つように選択させられたということだと思います。中間テストで落第点をとったというイメージでしょうか。おそらく、今後も、良心に従いきれなかったり、エゴを薄くしきれなかった場合はこのまま滅びるのでしょう。
しかし、ここから、エゴを洗練・薄くし、学びを深め、白いボールになればいいのだと私は思っております。
後半は自分のことになってしまい、エゴの質問からはそれてしまいましたが、御解説いただけますと幸いです。
現在、猛暑が続いており、ご体調を崩しやすい季節となっております。古川様、真風様、まんだらけの皆様におかれましては、ご体調に気を付けてお過ごしくださいませ。世界人類が平和でありますように。
餅巾着
餅巾着(もちきんちゃく) 様
SO&SOです。
餅巾着(もちきんちゃく)様のお話しについてですが、宇宙全史の動画Vol.200~209にて回答させていただきます。
よろしくお願いします。
古川先生 目風様 スタッフの皆様
毎日の動画配信ありがとうございます。
性や聖なる娼婦についての動画が続く中ですが、質問をさせてください。
①聖なる娼婦とは、身体の性別が女性であることが重要ですか?
②地球全史に記載されている「人間に与えられた10の形質(p.345)」や「人種による課題(p.357)」のように、男性女性で異なる形質や課題(カルマ)があるのでしょうか?
(10の形質: 1(+)好奇心(生命のほとばしり) 2(-)慎重さ・猜疑心(ブレーキ) 3(+)冒険心・勇気(無鉄砲さ)・恐れを知らない生き方・蛮勇 4(-)共感する力(自信がある同情)・ナイーブさ・繊細さ・神経質 5(+)執着心・自己顕示欲(エゴ) 6(-)同情心(自信がない共感) 7(+)探究心(明晰性) 8(-)愚鈍さ(迷い・躊躇・落ち着き・腹が据わる) 9、10(+・-)中立心・自己否定・肯定のゆらぎ)
(人種による課題: 黒人 猜疑心(+・-) 褐色人 許容心(+・-) 白人 落ち着き「沈着心」(+・-) 黄色人種 守る心「自尊心」(+・-))
③「日本を動かしたお二人の背後で見守ることで女性としての見事な在り様を見せて下さっています。(p.608)」この項が一番重要だと掲示板かどこかでご教示されていた気がするのですが、「聖なる娼婦」に通ずるところがありますか?
よろしくお願い致します。
ツナ 様
SO&SOです。
ツナ様のお話しについてですが、宇宙全史の動画Vol.199にて回答させていただきます。
よろしくお願いします。
目風様 みわ様 古川益三先生
日々の深遠な御指導まことにありがとうございます。
昨年の冬至にEOの遺骨を食すご許可をいただき、その後、動画と掲示板でいただいた御指導を思慧しながら、過ごしておりました。
今朝の瞑想で、やっと境涯が少し変わったように思われましたので、拙いながらご報告します。
大した思いつきはありませんが、毎日、動画の御教示を自分の瞑想のメソッドにできないか考えてまいりました。
ここ数日は、先日教えていただいたvoidをイメージし、自分の内奥に参入することを意識的に行なっていました。
ずっと以前に一度だけ、その時イメージしていた仏陀の中に自分の首を入れてみたら、ものすごく深い闇が現れ、驚いてすぐに飛び出た体験がありまして、それを連想したからです。
日々の瞑想を継続してきましたが、これまで大きな進展はなく、私の今世のこの有様では、もうこのあたりで限界、頭打ちになるのではないかと最近は諦めかけていました。
本日は、もうあれこれとメソッドを考えてもしようがない、自我力的な思いと自分が勝手に望む展開を排除して、本来のお導きに気づけようになりたいという気持ちが沸いてまいりまして、虚心坦懐、柔らかいお祈りと世界平和の祈り、月読之大神と五井先生への感謝を繰り返し祈りました。
そうしましたら、何故か今朝は、これまでいつも無くすることのできなかった身体意識が全く感じられなくなって行き、いつも瞑想の中で明滅するエゴの思いが彼方へ遠のき、これまでの私の体験では、一番「一元」と言っていいと思える状態になりました。目を疑いました。瞑想で閉じたままですが。
瞑想を終了し、このメモを書いている今も、目を閉じるとまだその状態が続いています。信じられません。この程度の体験でも大変嬉しく思います。この先いつか実存に到達したいと改めて強く願う今の気持ちです。ありがとうございます。
最後に質問をぜひお願い申し上げます。
実存は緩衝地帯であると教えていただいておりますが、よく分からないながら、実存において、エゴが無くなっても、何らかのアイデンティティ、色という言葉で表現されるところがあるのではないかと思っています。
しかし、その実存での様式で、実存において、更なる探究を行うということを想像しようとしますと、全く想像できません。
大雑把な表現で恐縮ですが、一元の中での気づき、学習、探究、更にその先の真我に至るための過程というのはどのようなものなのでしょうか。ニサルガやEOは、そこで何をどうしているのでしょうか。混乱した未熟な質問ですが、ぜひ御教示をお願い申し上げます。
五井先生 月読之大神 目風様 みわ様 古川益三先生 ありがとうございます。
どっぺん 様
SO&SOです。
どっぺん様のお話しについてですが、宇宙全史の動画Vol.198にて回答させていただきます。
よろしくお願いします。
目風さま 古川さま みわさま まんだらけスタッフの皆さま
昨年発行の「御祭舟」と「虚空蔵東京本」 今年2月からの毎日の動画更新 学びの機会が増え感謝しております
大きく動き出してきたのかなと思っています ありがとうございます
一昨年 古川様の若い頃の作品(漫画)をいくつか読ませていただきました
学生の頃に読んだ古川様の作品 はっきりと記憶に残っていたのは 「彷徨」(1974年?、「草原電鉄」2001年発行)でした
(ただ作品名と作者名だけは記憶に残っていませんでした すみません)
学生の頃に読み 主人公の「なんか・・・不安やなあ」と言う最後の場面 すごいなって驚いたこと 今でもはっきりと覚えています
ただ 本当は あなたがた(私たち読者)も主人公と同じ境涯(家畜)なのですよと この作品にて教えていただいていたということ 虚空蔵東京本 第一冊を読み 漸く気づかせていただきました
「彷徨」を 20代の頃に描ける 古川様(目風様)の凄さに改めて驚きました
御祭舟 完成まで よろしくお願いします
つたない内容ですが いくつか質問がございます 宜しくお願いします
動画vol.143にて クロハバキさんに見つけていただいた
ニサルガダッタ・マハラジのI AM THAT 548ページの
「時間が無限なのだ。そこに限界はあるが、
永遠は今という一瞬のなかにある。私たちがそれを見失うのは、
私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行き来しているからだ。
マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。
もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。」
「時間が無限なのだ。そこに限界はあるが」について
イメージとして理解し易いのは 高校数学で学んだ「極限」がこれに近いのですが
私たちが認識している時間は、無限に続く数列に例えれば、「収束する数列」に近い性質を持つと理解していいのでしょうか?
「極限」について ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋しました
直感的には、数の列がある値に限りなく近づくとき、その値のことを数列の極限あるいは極限値といい、この数列は収束するという。
自然数の逆数の列 1、1/2、1/3、 …、1/n … を考えると、n を限りなく大きくしていくと一般項 1/n は限りなく 0 に近づいていく。このときこの数列は 0 に収束するといい、このことを
( 記号 lim(リミット) を使って書く ) あるいは 1/n → 0 ( n → ∞ ) と書く
小菅正三 著「次元と認識 : いのちの本質をたずねて」、1979.9. 国立国会図書館デジタルコレクション では 無限と永遠について 次のようにご説明して頂いています
56ページに
「このように、われわれの日常体験しつつある時間は、時間の中にいて、時間を経験しているので、本当の時間の姿ではない。だからそれを見ようとするならば、この第四次元の世界(第六図では線)の外に立たなければならない。そのような立場が、この線に垂直関係にあるf点である。つまり時間の外に立つということは、時間(ここでは流れる時間)を超越することである。」
(小菅正三さん著書からの引用箇所の中に わかりやすいように一部言葉を追記しています)
図 → 第六図 、 f → f点
57ページには
「さてこのような立場から見た時間の姿は、どの様なものであろうか。
第六図のf点から線を見下ろした場合の幾何学的関係から考えられるように、ちょうどそれは高い山から、または宇宙ロケットから下界の河を見下ろした場合に、河上も河下も一望のもとに眺められるのと同様、時間の流れのどの点でも同時に見下ろせることになり、従って時間そのものは流れないという結論になる。つまり過去も未来もなく、いつも現在だということである。そしてこのような時間の同時性こそ、永遠を意味するものである。永遠とは、無限に連続する時間ではなく、実はこのように流れる時間の無い世界のことなのである。それはここに住むものには、いつでも現在であり同時であり、原因と結果といった関係も、通常われわれの考えるものとは違った関係になる。」
小菅正三さんはこのようにわかりやすくご説明して頂いていますが、時間を経験「彷徨」するのではなく、空間と時間の世界(第四次元)の外に立つ ということは
宇宙全史にて学んだ知識を智慧にまで高められていない私には まだまだ難しいことと感じています
アセンションして行く人たち について
動画vol.128では 20年後 地球とともにアセンションして行く人たちは 3.28次元から 3.9次元近くまで上昇する地球(ユートピア、理想郷)にて暮らせるが 「ユートピアで完全覚醒を求める人はいない」 と教えて頂きました
「宇宙全史別巻 20年後地上の人間は半分になる」
99ページに
「彼らの元いた星は、既に滅んでいますが、そこに残った(ある意味封印された)河童の魂が、地球に来た河童たちの意識が輝くことで、そちらのカッパの魂にも波及するということがあるのです。
そういう効果は、地球に来た他の何百、何千という種族でも同じで、その意識の輝きはすべての同族に反映していきます。
これは妖怪たちのみならずすべての人々にも共通することで、ひとりが20年後の地球に残れたなら、その成果はその人に通じる集合魂全体に波及し、大きく響くのです。」
とあります
このことは人類にもあてはまり 3.9次元までアセンションした人たち(ユートピアで暮らせる人たち)の成果は その人たちに通じる ディセンションした集合魂全体にも波及し 大きく響くことになるのでしょうか?
陰始について
御祭舟にて「陰始」が描かれているのは 付録本「妖怪」の 27ページ 30ページ 31ページ、 第一巻の336ページ 437ページ です
御祭舟に登場する「陰始」は 狡猾な表情はしていますが 身体(下半身)は白い蛇の姿をしているように見えます もっとドロドロした姿(身体)を想像していたのですが 意外とすっきりした身体(下半身)との印象です
古川様(目風様)の感じる 陰始は 白い蛇のような姿(身体)をしているのでしょうか?
空海さんの「悲しいかな悲しいかな・・・」は動画でもしばしば取り上げられていますね
虚空蔵東京本 第一冊 11ページには
「空海の「悲しいかな悲しいかなまた悲しいかな・・・」は
・・・
原罪を抱えて生きる人間の救いようのない
悲しみを観てしまった慟哭のようなもの」
とご説明して頂いています
五井先生「人間と真実の生き方」の最後にある言葉は
「世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。」
という強い口調のお言葉です
以前からこの「真の救いを体得できるものである。」という文書最後にあるお言葉は気にはなっていましたが 空海さん慟哭の意味を詳しく教えて頂き 改めて五井先生のすごさと 「真の救いを体得できる」と教えていただいている 五井先生のありがたさをよく理解することが出来ました
ありがとうございます
引き続きの 宇宙全史のワーク 宜しくお願いします